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しながわ 笑顔のバトン

五反田の歴史を見た

皆さんのプロフィール

五反田の現三井銀行付近で生まれる。
戦時中、学童疎開経験はしたが、戦後この街に戻る。
佐藤薬局を営むが現在は、お店をしめて4年。
“普段は何されているのですか?”
月曜の朝から趣味などで忙しいです。
“この街は好きですか?”
子供たちに別のところへ行ったらって言われるのですが、4年前に店をしめてから五反田のこの場所以外は考えられずこの街から離れられずここにいます。
“いつごろ開業された薬屋さんですか?”
昭和7年ごろ、父が開業し、私が継ぎまして2代目でした。

昭和5年~6年から父母の代から移り住み、現在の西五反田1丁目に生まれる。
母が雑貨屋を営んでおり、その雑貨屋は、佐藤さんの薬局屋の向かいにありました。
私自身は、昭和22年から官庁に勤めており、その時期街の記憶はありませんが、
勤めを終えた後、母を引き継いで2代目として洋品店を営んでいます。
戦前、焼きだされ疎開もせず、五反田にずっといて田舎がない
父母時代は、大崎広小路に住んでいて、日露戦争時代に五反田に移り住んだ。
“現在は、石屋さんはしていないのですか”
身体を壊して、石材店を引退してます
“好きでした?自分の仕事”
わるかーないですよ!
今でこそ機械を使ってますが、昔は、石を磨くにしても、文字を彫るにしても、道具を焼くにも全て手で作業をしてました。
道具を焼いて現場に行ってましたよ。だから、寝坊が出来ませんでしたよ。。
今は機械で彫って、ハンコと同じように文字が彫ることが出来るんですけどね、手で彫ると深くは彫れないけど、深みがあって味がありますよね。
本立寺にお墓があるので、五反田は絶対に出る事はできないです。。
生まれてすぐ群馬に疎開する。
戦後は、クリーニング店を営む。現在は、不動産屋に勤める。
父親は、明治38年生まれで元総理の福田さんと同級生。
昭和23年、小学校のころに東京に戻ってきた。
その時代は、まだ街は、バラックで、規格整理をしている時代だったんだよね。 みんな、丸太で家を引いてきてたよね。
5歳の頃ね、迷子になったんだよね。 軍用車が並木橋の方面に行ったんで付いていったら、渋谷あたりで、家がわかんなくなったんだよね。。駐在所で捕まえてくれて、当時の俺のしゃべりが群馬のなまりがあったんで、一人の婦警さんが出身が群馬だったらしく、わかってもらって引き取ってくれて、道玄坂の方にあるお家に呼ばれてね、華やかな提灯のあるところでおじやをごちそうになったの覚えているよね。 その人に引き取られてよかったよ。でなかったら、俺、孤児院に送られるところだったから・・・
その後は、父親と姉が迎えに来てくれてね。無事五反田に戻ってこれたよ。

日本旅館を経営してます。
地元ではないですが、昭和36年ぐらいに東京に来て、その当時は、五反田は開発されていなくてとても小さくて、目の前には、都電が走っていてる時代でしてね。
家内と親父がやっていた旅館を継いだんですが、その頃は、旅館の変遷の時期で、どう運営しようか悩んでいたところ、講習会に参加しまして、旅館やホテルの料金が高く、外国人の方をお迎えすることが出来なかったので、外国人向けの安価な宿泊先を提供することを提案され、とりあえずスタートさせました。最初は、体制が整っていないので英語もつたなく英語の辞書を引っぱり出したり、身振り手振りやって、大きな人がたくさん寄ってね。。。
バブルの変遷やら震災の被害で色々ありますが、なんとかやってきましたね。
旅館は、外国人向け用に機能面で少し手を加えましたが、日本を知ってもらおうとしていたので、食事などはなるべく日本に来たのだから日本のスタイルでということでおもてなししてきました。

私の知らない時代、教科書では習わない事、たくさんのことをお話ししていただけました。
最後に皆さんも言ってましたが、年代が違う方が集まることで、とても楽しい時間が過ごせました。
今日という日まで時間を過ごして頂いて、出会えたことをとてもうれしく思いました。
このご縁は、本当に喜ばしい事だと思います!
日露戦争や住所が東京が都ではなく、府だったり、東京市大森区という町があったとか、色々知らないことが聞けて、驚くことばかりでした。

本当にありがとうございました。
苦労の先に笑顔がある。五反田はそんな街だと思います♪